2003年、ダイエーホークス・ダイハード打線の一角を担ったフリオ・ズレータ

6シーズンにわたって活躍した、記録にも記憶にも残る選手でした。

ズレータといえばやはりホームラン後のパフォーマンス。

カメラに向かって「パナマウンガ!」とポーズをとる姿を覚えている方も多い事でしょう。

彼の出身、パナマにある世界有数の運河、「パナマ運河

でも何気なく聞いていただけで、実はパナマ運河についてはあまり知らないという野球ファンもいらっしゃるかもしれません。

せっかくなのでパナマ運河について、知っていきませんか?


 

カリブの怪人フリオ・ズレータ

2003年シーズン途中、ダイエーホークスへと入団したフリオ・ズレータ

シーズンの半分にも満たない67試合の出場ながら、13本塁打43打点を残すなど、恐怖の下位打線として活躍しました。

この年のダイエー打線は1番から8番まで3割近い打率を残す打者がズラリ。

チーム打率はNPB歴代1位の.297

加えて30本塁打以上が2人、100打点以上が4人、30盗塁以上も3人。

機動力も一発もある、超強力打線でした。

(100打点以上が1チームから4人出るのもNPB史上初)

 

ズレータは主に7番打者として活躍。

6月からの加入ということもあって13本塁打しか記録していませんが、1本1本の飛距離は飛んでもない数字を残していました。

7番ズレータ・8番出口・9番鳥越の3連発は、この年の語り草になっています。

ズレータは日本シリーズでも勝負強い打撃を見せ、日本一に貢献しました。

 

翌年からはクリーンナップに座るようになり、

2004年:打率.284 37本塁打 100打点

2005年:打率.391 43本塁打 99打点

2006年:.281 29本塁打 91打点

と安定した活躍

2007年からはロッテへ移籍し、開幕戦でダルビッシュ有選手から満塁ホームランを放つなど、記録にも記憶にも残る選手でした。

ズレータホームラン後の「パナマ運河」

そして何より、ズレータといえばホームランを打った後のパフォーマンス

カメラに向かって、刀を振り下ろすようなしぐさをしながら「チョップ!チョップ!」

そして拳を突き出し「パナマウンガー!

2006年からは博多名物の「よかろうもん」が、ロッテに移籍してからは「幕張ファイヤー!」も追加されました。

日本、パナマ、福岡、千葉、それぞれにちなんだパフォーマンスが取り入れられていましたね。

 

さてズレータのパフォーマンスで何気なく聞いていたパナマ運河。

教科書にも載るレベルで有名な国際運河ではありますが、実際にどれくらいの規模のものなのでしょうか?

実際に写真付きで見てみると、またイメージがガラッと変わるかもしれません。

提供:写真AC

ズレータはパナマ共和国パナマ県パナマ市出身です。

パナマは中米の国の中でも有数の経済都市であり、その発展具合も想像以上!

街には高層ビルが立ち並び、夜になってもその明かりが途切れることはありません。

パナマ運河はそんなパナマ市のすぐそばを通ります。

 

太平洋側の入り口はパナマ湾、大西洋側の入り口はコロン港。

全長約80km、文字通りパナマを横断する、世界最大級の運河です。

途中にはガトゥン湖という海抜26mもの場所に位置する湖もあり、長さだけでなく高低差も世界最大級。

船体を斜めに傾けるわけにはいきませんから、各地で閘門(こうもん)と呼ばれる装置を使い、水位の調節をしながら進んでいきます。

提供:写真AC

パナマ運河は世界的にも重要な運河

もしパナマ運河がなければ、私たちの生活はもっと不便だったかもしれません。

パナマ運河が開通したのは1914年のこと。

当時はアメリカの西海岸~東海岸へ海上ルートはマゼラン海峡やドレーク海峡を経由していました。

南アメリカ大陸をぐるりと回る、遠回りのルートしかなかったのです。

提供:写真AC

1800年代後半にアメリカを横断する鉄道が相次いで建設され、アメリカ西部が開拓されると共に、移住が促進されました。

しかしまだ鉄道では大量の貨物は運べません。

飛行機だってまだ発明されていません(ライト兄弟が初の有人飛行に成功したのは1903年)。

そういった背景もあって、海上ルートの整備は最重要項目でした。

さらにさかのぼると、パナマ運河の構想自体は1500年代からあったという話もあったとされています。

こちらもコロンブスのアメリカ大陸発見が1492年、それくらいこのルートの重要性が高いことがうかがえますね。

この当時の技術では実現不可能でしたが、1800年代の産業革命で技術力が格段に上がり(鉄道もそのおかげで開通した)、

400年越しでパナマ運河が開通したのです。

私たちとも密接にかかわるパナマ運河

提供:写真AC

パナマ運河の開通により、西海岸~東海岸の間で大量の貨物を短時間に輸送することが可能となりました。

開通当初は利用のほとんどがアメリカでしたが、次第に日本の利用も増えていきます。

60年代に重化学工業が発展し、当時はまだ固定為替相場だったこともあり、輸出が急増。

73年には変動為替相場への移行、さらには石油危機も起こりましたが、

そこから小型で燃費のいい日本車が注目を集めるなど、貿易は拡大し続けました。

パナマ運河は日本の貿易にも密接にかかわっていたんですね。

 

パナマ運河は現在でも年平均で13,000隻以上の船舶が通行する世界有数の運河として、貿易には不可欠な存在となっています。

当時と違って空輸も発達していますが、やはり大量の荷物を運ぶには海送が最も適していますから。

なんとなくズレータのパフォーマンスで知っているくらいでしたが、実はこんなにも重要な場所であり、私たちにも大きくかかわっている場所だったのです。