明治を代表する俳人、正岡子規

彼は野球の普及に貢献した人物としても有名ですよね。

まだ「ベースボール」という言葉しかなかった時代に、初めて「野球」という言葉を生み出した人物とも。

今回はそんな正岡子規と野球について掘り下げてみました。


幼いころから勉学に励んだ正岡子規

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

こちらの俳句でもおなじみの正岡子規。

実はこの句の前置きに「法隆寺の茶店に憩ひて」とあり、

法隆寺近くの茶店で休憩中、柿を食べていたところ法隆寺の鐘が聞こえ、秋の訪れを感じたということを句にしたためました。

初出は1895年の「南海新聞

発表当初はそれほど大きな反響はなかったそうですが、1916年に法隆寺境内にこの句の句碑が建てられると、法隆寺のキャッチコピー的な存在としてこの句が広まっていきました。

提供:写真AC

正岡子規が生まれたのはちょうど大政奉還の頃。

1867年、松山藩士・正岡常尚の長男として生まれました。

幼いころから勉学に励み、小学校入学前から外叔父である大原観山の私塾に通い、素読を学びます。

6歳からは寺子屋式の小学校・末広小学校に入学すると、翌年には愛媛県に小学校が置かれたため、勝山小学校へと転向します。

 

13歳のころ、松山中学(現:松山東高等学校)に入学。

3年後には本格的な受験勉強のために上京し、共立学校(現:開成高等学校)に入学しています。

翌年には東大予備門(のちの第一高等学校、現:東京大学教養学部)に入学し、大学入学に向けてさらに勉学に励みます。

ちなみにこの東大予備門では夏目漱石南方熊楠らと同窓だったそうです。

Point:当時の教育制度について

当時は学校に関する制度もまだ整っておらず、現在のような6-3-3-4の制度ができたのは1947年の学校教育法からになります。

特に子規が過ごした時代はまだまだ目まぐるしく制度が変わっていた時代で、通っている最中に制度が変わったり学校名が変わることも珍しくありませんでした。

 

明治になって学制改革が起こり、1872年に学制が発布されたことによって徐々に教育制度が整えられ始めたこのころ。

1873年、官立の「東京師範学校付属小学校」を皮切りとして、1875年にはほぼ現在並みの2万4000の小学校が全国各地に設立されます。

子規が勝山小学校に転校したのも、1875年のことでした。

当時の小学校はまだ就学課程も4年、子規も天候から4年後の79年に勝山学校を卒業しています。

勝山小学校卒業後は松山中学校へと入学するのですが、中学校についての制度も今と違っており、当時は5年間の修学課程がありました。

正岡子規は松山中学に3年間通っていましたが、その後も2年間の課程が残っていたわけですね。

 

そして1883年、16歳で上京し共立学校に入学します。

共立学校というのは、大学予備門を目指す学生たちが通う場所です。

そして大学予備門というのは、大学へ進学を希望する学生が大学入学前にあらかじめ教育を受ける場所となります。

 

つまり当時の制度としては、大学へ入学するには予備門へ通わなければならず、その予備門に合格するための学校が共立学校というわけですね。

予備校の予備校みたいな感じでしょうか?

子規も共立学校に通って翌年(1884年)には東大予備門へ入学しています。

 

この当時も学校制度はどんどん変わっていて、

共立学校は1886年の中学校令により受験生を集めることがむずかしくなり、1891年に「尋常中学共立学校」へ、

1895年には東京府開成尋常中学校へと名前を変えています。

東大予備門も、1886年に東大が「帝国大学」に改編されるにあたり、第一高等中学校として分離独立しています。

そして1894年に第一高等学校と改称され、以後様々な卒業生を輩出してきました。

このときも東大の予科としての役割を果たしていたのですが、

1949年が東京帝国大学がまた東大へと改編されるにあたり、第一高等学校は東京大学の教養学部として生まれ変わっています。

ちなみに東大も帝国大学(1886年)→東京帝国大学(1897年)→東京大学(1947年)という感じで移り変わっています。

正岡子規が野球という言葉を生み出した?

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正岡子規が野球に出会ったのも、この東大予備門に通っていたころです。

ポジションはキャッチャーであり、後に発刊する雑誌にも野球に関する文章や句が残っています。

 

日本に野球が伝わったのは1871年のこと。

英語講師として来日したホーレス・ウィルソンがアメリカのベースボールを伝え、全国に広まっていきました。

もちろんこのころにはまだ「野球」という言葉は存在していません。

 

初めて「野球」という言葉が使われるのは1890年の頃。

正岡子規が「野球」という雅号を使ったのが最初といわれています。

雅号というのは文人や書家が、本名以外に漬ける風雅な名前のこと、いわばペンネームのようなものですね。

実をいうと「子規」という名前も雅号として使っていたもので、本名は正岡昇(のぼる)といいます。

子規は俳人として多数の雅号を使っており、他の雅号としては

・獺祭書屋主人

・竹の里人

・香雲

・地風升

・越智処之助

などなど。

すべてを数えると50以上もの雅号を使い分けていたそうです。

「野球」の雅号もあくまでそのうちの一つ、

幼名の「升(のぼる)」にちなんで

”に”

”に”ぼーる

の読みをあて「野球(のぼーる)」という雅号を使用したみたいです。

 

ベースボールの和訳としての「野球」を初めて使ったのは、中馬庚(かのえ)という人物です。

この当時、中馬は第一高等学校の学生でした。つまり正岡子規の後輩にあたるわけですね。

1893年、中馬が同校を卒業するにあたり、ベースボール部の部史を発行しました。

このとき「Ball in the field」という言葉をもとに「野球」の文字をあてたのが最初とされています。

正岡子規が同雅号を使ってから4年後のことですね。

 

この当時、学生野球が非常に盛んになっていました。

1878年にベースボールが伝わって以降、1882年には初のベースボールチーム「新橋アスレチッククラブ」が設立。

1882年には駒場農学校と日本初の対抗戦が行われました。

 

その中でも特に強豪チームとして知られたのが第一高等学校なのです。

主戦投手には青井鍼男

当時から千本素振りなどの猛練習を自らに課し、野手としても中心人物だった選手です。

彼は横浜の外国人居留地を訪ね、ドロップという変化球を体得しました。

するとそのドロップを使い、居留地運動場で行われた「横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ」との試合に29-4で大勝したのです。

実はこれが記録に残っている中では初の国際試合であり、彼の活躍は野球史の鮮烈な1ページ目を残しました。

ちなみにその2週間後に相手チームからのリベンジを申し込まれているのですが、その際も32-9で大勝しています。

 

というように、第一高等学校の関係者がその後の野球の歴史を作り上げたといっても過言ではありません。

正岡子規は野球という言葉の生みの親ではないものの、バッターに「打者」、ランナーに「走者」、フォアボールに「四球」、ストレートに「直球」、フライに「飛球」など、様々な野球用語を生み出しました。

また中馬も野球だけでなく、ショートストップに対しても「遊撃手」という言葉をあてました。

ここに名前が出てきたホーレス・ウィルソン、正岡子規、中馬庚、青井鍼男はそれぞれ野球殿堂入りとして表彰されています。

病気と闘いながら数々の俳句を生み出す

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さて正岡子規は東大予備門を経て、1980年に帝国大学へと入学します。

哲学科を経て、翌年には国文科へと転学。

しかし帝国大学はこの1年で退学してしまいます。

正岡子規を苦しめたもの、それは「数学

というよりも数学の授業で使われていた「英語」です。

数学の授業で使われる英語が子規にとってはどうしても耐え難いものだったようで…

野球にまつわるたくさんの言葉を生み出したのも、どうしても英語に触れたくなかったからでしょうか?

結局この年の学年試験に落第し、そのまま追試を受けることもなく退学を選択します。

 

またその一方で、子規の体にはすでに病魔が潜んでいました。

予備門時代に友人たちと鎌倉に遊びに行った際、咳とともに血が出てしまいます。

いわゆる喀血(かっけつ)。

これ以降、子規はずっと病気と戦っていくこととなります。

子規という雅号を使い始めるのもこのころです。

自分の姿を「鳴いて血を吐いた」という故事のあるホトトギスになぞらえ、ホトトギスの漢字表記である「子規」を自らの雅号として使い始めました。

 

 

帝国大学の退学を決意してからは、日本新聞社へと入社。

文学に関する様々な記事・雑誌の出版に関わるようになります。

新聞「日本」に俳句欄を設けたり、単行本「獺祭書屋話(俳だっさいしょおくはいわ)」を発行したりなどなど。

特に獺祭書屋俳話ではこれまでの「俳諧」を否定し、俳句とはかくあるべきと、革新運動も行いました。

 

この当時まだ「俳句」というものはなく、松尾芭蕉が文芸として完成させた「俳諧」が主流でした。

とりわけ冒頭の発区に対しての評価が高まっていたという背景もあります。

古池や かはずとびこむ 水の音

夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡

閑けさや 岩にしみ入る 蝉の聲

奥の細道でもこういった句が読まれてから、各地でのエピソードなどが記されていましたよね。

 

そして明治になっても奥の細道はかなりの人気があり、とりわけ発句に関しては庶民にも楽しまれていました。

江戸から明治にかけて「月並句合(つきなみくあわせ)」という興行が行われていたほど。

これは毎月、お題を定めて参加者から発句を募り、最も優秀な句をまとめて出版するというものです。

類似句を掲載した手引書のようなものもあり、たくさんの人が参加していました。

 

しかし正岡子規はこういった句を「月並句」と批判。

句というものは最初からお題を決めて読むものでもなければ、知識がなければ読めないものでもない。

目の前のものをあるがままに読むべきものだと、痛烈に批判したのです。

 

 

1985年には日清戦争従軍記者として中国遼東半島に渡り、金州・旅順などに赴きます。

金州では軍医として滞在していた森鴎外にも挨拶を交わしています。

帰国してからは闘病しながらも友人である柳原極堂らともに句会を開催。

夏目漱石や森鴎外らと、俳句をさらに洗練させていきました。

1897年には柳原極堂が「ほとゝぎす」を創刊し、子規が募集俳句の選者を務めています。

その一方で日清戦争から帰国後は体調が悪化の一途をたどりました。

30歳を超えるころには起き上がることもままならず、寝返りですらも激痛が走るような状態だったといいます。

しかしそれでも俳句や短歌を造り続け、当時の子規が見た光景をありのままに詠みました。

 

鶏頭の 十四五本も ありぬべし

 

鶏頭というのはヒユ科の植物で、赤・黄色の花がニワトリのトサカのように見えることから、その名前が付けられました。

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子規の家の庭でも栽培されていたらしく、その様子をつづった俳句ですね。

一見すると「ただ庭に花が咲いているなぁという」単純な俳句のように見えます。

しかし子規がこの俳句を詠んだのは、結核の闘病中。

満足に動くことができない中でも、日常の中のちょっとした変化に感動を覚え、ありのままに詠む。

俳句とはかくあるべき

病床に伏しながらも俳句の普及に貢献した、正岡子規だからこそ詠めた俳句なのです。

病に伏しながらも俳句の普及に務めた子規の姿は、多くの俳人に影響を与えました。

現代でも多くの人に俳句が親しまれているのは、間違いなく子規の功績です。

野球だけでなく、俳句の普及にも貢献した正岡子規。

その存在は、何百年たっても色あせることはありません。