2021年、映画化も決定した「呪術廻戦

そしてこの作品ではある歴史上の人物が、作中のキャラクターと関わりのある人物として名前が上がっています。

菅原道真

学問の神様として知られ、彼が生涯を終えた太宰府天満宮は毎年多くの受験生が訪れていますよね。

そんな菅原道真、実は本当に呪術的な力があったともいわれています。

その真相やいかに。


呪術廻戦の重要キャラ?菅原道真

学問の神様としても有名な菅原道真

大人気漫画「呪術廻戦」でその名前が登場し、話題になっています。

連載開始前の読み切り「東京都立呪術高等専門学校」の主人公・乙骨憂太の先祖であり

そして呪術廻戦最強のキャラ・五条悟の先祖でもあると。

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作中ではあまりにもあっさりと明かされていましたし、連載が進んだ現状でもまだ2人の先祖という以上の情報は出てきていません。

今後どれくらいストーリーにかかわっていくのかは不明です。

ですがこの漫画には無駄な設定はありませんから、重要なシーンで出番が回ってくるのではないでしょうか?

しかも呪術高専は「呪術廻戦 0巻」として単行本化しており、さらに2021年には映画化されることも決まっています。

これますます菅原道真との関係が気になってきますね。

学問の神様・菅原道真

菅原道真

学問の天才として祀られる存在です。

実際にご本人も優れた歌人として知られており、

このたびは 幣も取りあへず 手向山

紅葉の錦 神のまにまに

こちらの詩は百人一首でもおなじみですよね。

幼少期からその才能を認められており、5歳になるころには和歌を11歳になるころには漢詩を読んでいたという話も残っています。

ちなみに曾祖父の代から学問の家系らしく、祖父の菅原清公・父の菅原是善と2代続けて文章博士(もんじょうはかせ:学者の最高位)を与えられています。

道真もやはり学者としての道に進み、18歳の時に式部省試に合格。

さらに25歳で方略試にも合格しました。

方略試は230年間で合格者わずか65人という非常に狭き門。

こういった難関試験を次々に突破していったことも、後に学問の神様として祀られる所以です。

そして玄蕃助や少内記として実績を積んだのち、文章博士に任命されています。

貴族としての身分はそれほど高くなかったそうなのですが、それを補って余りある学問への才能があったようです。

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道真は朝廷の人間からも重宝されており、当時陽成天皇の摂政として実権を握っていた藤原基経も道真を高く評価。

命令書(上勅令)や願い書などの重要な書類の代筆を道真に頼んでいたという話も残っています。

 

また人柄にも優れた人物であったという話もあります。

道真は仁和2年(886年)、40歳にして讃岐守に任命されることになります。

讃岐守任命に当たり文章博士を辞さなければならず、家族とも離れ離れ。

さらに周囲からは「左遷だ」という声も飛び出しており、この時の道真の心情が詠まれた詩は多数残っています。

しかし当時の讃岐は浮浪者が多く、さらには旱魃(かんばつ)などの自然災害にも苦しめられていました。

そこで讃岐立て直しのために、道真に白羽の矢が立ったというわけです。

就任当初こそ悲しみに暮れて詩ばかり詠んでいた道真ですが、半年がたつ頃には気持ちを切り替え、讃岐の人たちのために働くことを決意します。

地元の人たちを酒を酌み交わして進行を深めつつ、清廉を心がけた政治を行い、讃岐の人たちからはとても慕われていたそうです。

宇多天皇から絶大な信頼をおかれる

そして菅原道真が歴史に与えた最大の影響というと、やはり894年の遣唐使廃止です。

讃岐から戻ってきた菅原道真は、以前にもまして天皇から信頼されるようになります。

というのも讃岐守当時におきた「阿衡(あこう)事件」、別名「阿衡の紛議」とも呼ばれあるこの事件。

仁和3年(887年)春、光孝天皇が崩御され、宇多天皇が即位することになりました。

宇多天皇は即位してまもなく、藤原基経に関白を任せるため、橘広相に命じて詔勅を出します。

基経は前例に習い、いったんこれを辞退。

(当時は天皇により最高官位に命じられたものはこれを一度辞退し、再度天皇から命じられた時に受諾するという風習があった)

そして宇多天皇も再度橘広相に命じて勅令を出します。

ところがその勅令に

宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ

という一文がありました。

阿衡というのは殷時代の官名であり、中国の故事から引用された一文であることがわかります。

殷の阿衡に命じられた伊尹は優れた政治家として知られていました。

その伊尹のように、その手腕を発揮してくれというメッセージですね。

しかしこれを文章博士の藤原佐世

阿衡は位貴くも、職掌なし

と解釈して藤原基経に伝えてしまいます。

阿衡は身分は高かったが、職務を与えられた人物ではなかったと。

それを聞いた基経は大激怒し、すべての政務を放棄してしまいます。

宇多天皇は困り果ててしまい、関白任命の取り消しと、橘広相を解任する以外の道がありませんでした。

 

しかしこれを取り持ったのが、菅原道真です。

この騒動が起きた際、道真はまだ讃岐にいました。

しかし秋ごろに京都に戻ってくると、基経に対して意見書を送り、彼を諫めようとします。

これにより基経や周囲の貴族たちの橘広相への態度も軟化。

ようやく宇多天皇の体制がスタートしたのです。

 

そして讃岐守の人気も終わり、道真が満を持して帰京すると、宇多天皇から蔵人頭に任命されます。

宇多天皇の道真に対しての信頼は、絶大なものでした。

その後も中納言・右大臣とどんどん出世していき、宇多天皇の側近としてなくてはならない存在となったのです。

遣唐使廃止がその後の文化に大きく影響

そして894年、道真は遣唐大使に任命されます。

遣唐使に任命され唐に派遣されるということは、平安時代の人間にとってはエリートコースでした。

唐で学んだ文化を日本に持ち帰る、これだけでも日本にとって大きな利益になります。

しかしながら当時の船舶技術では日本と中国の往復といえど大変危険なものになります。

優秀な人材の多くが、海に飲まれてしまったというのもまた事実。

加えて道真が遣唐大使に選ばれたころ、「安禄山の乱」「黄巣の乱」などの大規模な反乱がおきており、

唐についても安全が保障されないという背景もありました。

そのため菅原道真は遣唐使の再検討を求める建議を提出。

その後も内外の事情などにより遣使が行われることがなく、そのまま唐の消滅により遣唐使も無くなっていきました。

 

遣唐使が廃止されたことにより、唐からの新たな文化の流入はなくなります。

その代わり、これまでの文化が日本独自の進化を遂げるようになったのです。

代表的なものはやはり仮名文字

仮名文字の発達により柔らかく女性的な表現も発達し、文学はどんどん発展していきました。

菅原道真の選択は、その後の文化にも大きな影響を与えたのです。

藤原時平の策略により大宰府へ

しかしこれほどまでに優れた人物だった菅原道真も、その最期は悲しいものでした。

昌泰4年(901年)、「昌泰の変

宇多天皇が醍醐天皇に譲位し、宇多上皇として政治に関わろうとしていた時期です。

宇多上皇はもちろん、道真を醍醐天皇の側近として推薦していました。

それどころか次期天皇を醍醐天皇に決めた際も、道真以外に相談が無かったそうです。

 

しかしそれに反発したのが藤原時平

藤原基経の息子であり、左大臣として宇多天皇を支えた人物です。

当時まだ20歳。

藤原家の直系と言えど、道真以上のスピードで出世してきました。

その才能は宇多天皇も高く評価していたといいます。

 

だからこその、昌泰の変が起こったのでしょうか?

やはり時平がいくら若かろうと、やはり当時の貴族としてのプライドがあります。

天皇の譲位という一大事を相談されないなど、不信感が募るのも無理はありません。

 

そこで時平は醍醐天皇にこう進言するのです

「道真が宇多天皇を欺き、惑わした」

「道真は醍醐天皇を廃止して、自分の娘婿を天皇にしようとしている」

これを受けた醍醐天皇は道真に対し、大宰府に向かうよう命じたのです。

しかも移動にかかる費用などは一切出ず、すべて道真の負担。

さらには大宰府についてからも政務に当たらせることはなく、俸給や従者すらも与えらず。

さらには道真の子供も各地に流刑にされたといいます。

身分も子供もすべてを奪われた道真。

昌泰の変から2年後、失意のままこの土地で生涯を追えました。

道真には呪術的な力があった?

このように失意のままその生涯の幕を閉じた菅原道真。

しかし彼は没後ですら、その名を京都にとどろかせました。

道真が没してから数年、朝廷内では病気が蔓延し、要人たちが次々に命を落としていきました。

藤原時平も昌泰の変から6年後に病気にかかっています。

さらには清涼殿への落雷など、大規模な自然災害まで発生。

この落雷から醍醐天皇まで体調を崩し、3か月後に崩御する事態にまでなったのです。

道真の没後から30年足らずで朝廷は崩壊。

これらはすべて道真の怨霊が原因とされ、947年に北野社(北野天満宮)にて神と祀られるようになりました。

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呪術廻戦で道真の名前が出てきたのも、やはりこういった背景からなのでしょうか?

ちなみに讃岐守の当時から天候を操ったという話がありまして、

讃岐で大旱魃(かんばつ)が起きた際、道真が城山にこもって七日七晩にわたり祭文を読み上げたところ、見事雨に恵まれたという話です。

もちろん偶然なのかもしれませんが、この話が伝わっていたからこそ、清涼殿の落雷も道真の仕業だと思われたのかもしれませんね。

それがあって道真が神と祀られているのですから、不思議なものです。

道真の呪術的な側面、漫画ではどう描かれるのでしょうか?