言わずと知れた戦国大名・織田信長。
天下統一目前で本能寺の変により明智光秀に討ち取られてしまいましたが、やはり彼の存在がその後の日本にも大きな影響を与えたことは間違いありません。
しかしその一方で、意外と謎の多い人物でもあります。
圧倒的な戦の才能、画期的な政策、そしてミステリアスな最期。
本当は信長は未来人なのではないかという説もあるほどです。
あるいは信長の周りに未来人が多数いたのではないかという考え方もあります。
今回は信長未来人説についてまとめてみました。
もっとも有名な武将・織田信長
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日本の歴史上、もっとも有名な人物の1人、織田信長。
戦国時代を代表する武将の1人であり、数々の合戦で戦果をあげた戦の天才。
しかし最期は家臣の明智光秀に謀反を起こされ、本能寺でその生涯を終えたというのはあまりにも有名ですよね。
そして天下統一の夢は豊臣秀吉に受け継がれ、秀吉の後には徳川家康が台頭し、その後の日本史に大きな影響を与えました。
織田信長がいなければ、今の私たちの生活も大きく変わっていたのではないでしょうか?
しかしこれほどまでに有名な人物であるにもかかわらず、以外にも謎多き人物でもあります。
当時としてはあまりにも画期的な政策が多いことや、いち早く鉄砲を戦に取り入れたことなど。
先見の明がありすぎて、本当は違う時代から来た未来人なのでは?という説も。
本能寺の変でも、信長の最期を見届けた人はいなかったどころか、本能寺の焼け跡をどれだけ探しても信長の姿が見つからなかったといいます。
いったいどれだけミステリアスな人物なのでしょうか?
戦の天才だった織田信長
織田信長は尾張国の武将、織田信秀の嫡男として誕生しました。
若い頃は奇抜な服で街を歩いたりなどの奇行が目立ち、「尾張の大うつけもの」なんて呼ばれていた信長。
しかし家督を継いでからはそういった姿も見られなくなり、むしろ戦の天才としてその名が知られるようになります。
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信長の戦果としてとくに有名なのが「桶狭間の戦い」でしょう。
領地拡大のために、2万5000もの軍勢を率いて尾張に侵攻してきた今川義元軍に対し、奇襲を交えながらわずか2000ほどの軍勢で勝利を治めました。
その後も「長篠の戦」では武田信玄率いる騎馬軍に対し、鉄砲隊で圧倒したり、
足利義昭を擁立して室町幕府の15代将軍に擁立し、その後ろ盾となることで事実上畿内(近畿地方)を支配下に置いたり。
この時代の日本を大きく動かした人物でした。
画期的だった信長の政策
信長は当時の常識にはとらわれない、先見の明を持った人物でした。
戦の面ではもちろん、政治の面でもそれが存分に発揮されています。
信長の打ちだした政策としては
楽市・楽座
関所の廃止
道路整備
などなど
やはりもっとも有名なのは楽市・楽座ですよね。
信長は1567年、近江国・安土や美濃国・加納などに対して楽市・楽座令を発布しました。
市というのはもちろん市場のこと。
座というのは簡単に言えば商人の組合のことです。
その地域を収める当主たちに金銭を払い、その代わりに営業や販売の独占権を認められていました。
座にもさまざまな種類があり、代表的なものとしては
北野社の麹座、山城大山崎の油座、摂津今宮の魚座、鎌倉の材木座、博多の油座などなど
しかし楽市・楽座では座による商売の独占を禁止し、自由な市場を推奨しました。
商売の独占が認められなくなった一方で、上納金などを払う必要もなく、市場はかなり賑わったといいます。
さらにほぼ同時期、信長は関所も廃止します。
関所の通行料は各地域の貴重な収入源でしたが、目先の収入よりも先のことを考え、これも廃止。
自由な通行を許可することで、ヒト・モノ・カネの流れはさらに活発になっていきます。
配下に道路の整備を命じたことも、その流通をさらに円滑にしました。
楽市・楽座令は決して信長のオリジナルの制作というわけではありません。
関所の廃止は信長が初ですが、楽市・楽座令は信長以前にも近江国の六角定頼が観音寺城下の石寺に発布していたりします。
が、信長のこれらの政策は、後々の展開にも大きく関わっているのです。
最初から鉄砲の導入も視野に?
信長が戦面で画期的だったことといえば、鉄砲の導入です。
「長篠の戦い」では、最強とも言われた武田騎馬隊を、信長の鉄砲軍が打ち破りました。
鉄砲は1発撃つと次に撃てるまでに時間がかかるのですが、鉄砲隊を3列に分けて構えさせる「三段打ち」を開発したことで、武田軍を圧倒したといいます。
近年の研究ではこの三段打ちの作戦は本当にあったのか疑問視されているそうなのですが、大量の鉄砲が持ち込まれたことは事実。
鉄砲も信長が初めて戦に持ち込んだというわけではないのですが、やはり彼の功績を語るのには不可欠なモノでしょう。
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ではどうして信長が他の大名に先んじて大量に鉄砲を調達することができたのか。
やはりここにも信長の政策が関わってきています。
信長は桶狭間の戦いで今川氏を破り尾張を統一したのち、畿内(現在の近畿地方)に向かいました。
畿内では三好三人衆(三好義継・三好三人衆・松永久通)が権勢を誇っており、室町幕府の将軍・足利義輝を暗殺します。
やはり下克上の時代、将軍といえどもその立場は安泰ではありません。
義輝の弟・足利義昭は松永久秀の保護下にあったため、なんとか命だけは逃れることができましたが、このままでは三好三人衆に畿内が落とされるのは時間の問題。
足利義昭は近隣の諸大名に上洛(京都へ行くこと)への協力を求めます。
信長も足利義昭に協力した大名の1人。
六角義賢ら反義昭派らの軍勢を退け、足利義昭の上洛をサポート。
さらには信長が一時美濃に戻った隙を見て三好三人衆が足利義昭を襲撃するも、信長はわずか2日で戻ってきて返り討ちにしてしまいます。
上洛後は足利義昭を室町幕府15代将軍に擁立し、幕府の復興に尽力しました。
信長は足利義昭と協力関係を続け、京都に「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」を発布するなど、実質的に畿内を直轄地にしていきました。
特に大きかったのが「堺」、現在の大阪府堺市ですね。
1543年に種子島に鉄砲が伝来して以降、九州や畿内などの各地にその製法が伝わっていきました。
堺では特に鉄砲の生産が盛んであり、大量生産化にも成功。
安価で良質な鉄砲が大量に手に入る場所だったのです。
さらに楽市・楽座令および関所の廃止により、安土にはたくさんのモノが集まる仕組みができていました。
こうして他の大名に先駆け、信長は大量の鉄砲を戦に投入することができたのです。
あらゆる信長の行動が、天下統一への布石だった訳ですね。
本能寺で信長が消えた!?
いったいどれだけ未来を見据えていたのでしょうか?
いや、本当に未来から来たのかもしれない。
それほどまでに、信長の行動には合理性があります。
さらに信長を未来人たらしめるのは、やはり「本能寺の変」です。
1582年6月2日、信長は京都に立ち寄っていました。
豊臣秀吉に備中国への侵攻を命じており、それを支援するために自身も備中へ向かっていたのです。
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午前6時、家臣の明智光秀が本能寺に火を放ちます。
光秀は1万3000もの軍を率い、信長への暗殺を企てたのです。
対して信長は当時100人ほどの家臣しか率いておらず、圧倒的不利な状況。
ほとんど抵抗することなく、最後は火中の本能寺で自らの命を絶ったといいます。
ほとんど焼け落ちてしまった本能寺。
光秀はさっそく信長の姿を確認しに行きます。
しかしどれだけ探しても信長が全く見つかりません。
もちろん信長は命を絶ったわけですから、そこから動ける訳はありません。
体もろとも焼けたとしても、その跡くらいは残ります。
しかしそれでも、光秀は信長の影も形も全く見つけることができなかったのです。
さらに本能寺の変の跡、光秀は秀吉に討ち取られてしまうのですが…
秀吉が改めて信長を探したところ、やはり信長は見つかりませんでした。
信長は一体どこへ行ってしまったのか。
ワープしたのか、タイムスリップしたのか。
本当は未来から来て、この瞬間に自分の時代に帰ってしまったのか。
あまりにも謎めいた最期に、そんな想像すらも膨らんでしまいます。
信長は未来人?たくさんの作品で未来人にかかわる
いやむしろ信長の周りに未来人が多かったのでは?
現代にも信長を題材にした漫画や小説、ドラマなどがありますが、
そのほとんどが現代人が信長の時代にタイムスリップしてしまうという内容なのです。
例えばドラマ「信長のシェフ」では現代からタイムスリップしてきた料理人ケンが信長に料理を振る舞い、
映画「本能寺ホテル」ではOLの繭子に、本能寺で明智光秀が謀反を企てていると伝えられています。
あまりにも多くの作品で、信長は未来人とふれあっているのです。
確かに信長は敵には残忍な一面も見せるし、家臣には厳しい人物でしたが、平時の際には好奇心旺盛な人物としても知られていました。
身分にかかわらず、民衆ともよく話をしていたそうです。
もしかすると未来人からの話にも興味を持って聞いてくれていたのかもしれません。
ここ数年ではよく掲示板にスレも立てられていて、各時代の未来人が、信長にその時代の電子機器を献上したりもしています。
たいていの場合はスマホを献上されていて、もはや未来人以上にスマホに詳しくなる信長。
ガラケーなんて献上しようものなら、信長にあきれられてしまいます。
ただどういう展開になろうと、本能寺の変で起きる未来は変えられなかったりするのもポイントです。
当時の人たちも、500年たった現代の人たちも、解き明かせなかった信長の謎。
もし信長が本当に未来人なら、その時代が来ればすべてがわかるかもしれませんね。